2015.1.5 新春セミナー@東京
何人かが同じ質問をして、それに対する先生の答えが一人一人違うので、中国の参加者の間では、たとえば「私は特別」という思いをもつ人には、“わざとそれを膨らませて落とす”という目的で答えているのはないかと話し合っていますが、本当にそうなのでしょうか。私は真理を学ぶなかで、先生の言葉を深読みせずに素直に聞いて導き通りにしています。ですが、みんなのその話を聞いて先生の言葉を信じて良いかどうかわからなくなりました。
皆さんにそれがわかれば悟りなの。
わからないからここに座って学んでいるの。
で、今、(あなたが)大きな間違いをおかしたのはね、皆さんを落とすために私はここに立っているのではない。
私のどんな言葉にも、どんな表現にも、そこには皆さんを高い意識状態のなかに導くための(目的があります)。
じゃあ、たとえばYさんが怒りをもっているとします。
その怒りを鎮めた状態で、その怒りを克服せずにして、どうして根源の世界に帰れます?
自分では出せない、あまりにもYさんのその怒りというそのネガティブが頑固で、中にこびりついて潜んでいるならば、少々な縁に触れては引き出せない。
まあ、これからの地球波動は、バイブレーションも高まり、愛の強さで引き出せるかもしれないけど、今まではそうはできなかった。
わざと私は怒りのその縁を与えて引き出させるの。
で、私は落とすためではなく、皆さんを高めるための表現なの。
皆さんの前に立つ世の指導者というのは、誰もあなた方から憎まれたくないもんだから、常に優しい良い状態を説いて、嫌われないように今まで導いてきました。
しかし、私は褒められるためにもいない。
憎まれるためにいるんでもない。
私の今生の役割は、皆さんを完全に神の根源まで高めるために、この約束できていることを知っているがゆえに、私はそういう表現も取れるんです。
今日は約200名の集まりといいます。で、私が私のやり方で、200名が明日からもう一人もこの学びに来ないとしても、私はそれに苦しむことはありません。
今生、私のやり方に引っかかってこの学びを去った方は何百名、何千名。
いちばん何に引っかかったのか?
嫉妬をもっている人間です。
まあ、私はそこまではしていませんよ。そこまではしていないけど、皆さんの内側に潜んでいるその嫉妬というものを引き出すためには、Yさんは嫌でしょうけど、もうその者の完成のためには、絶対その者はそれを引き出すことがないかぎり悟りはないというなら、あえてその者が見ている前で、私がYさんの手を取ってホテルから出てきますよ。おそらく70億の人間がとどまれた者はいないでしょう。私はそこまでやれます。
また皆さんを根源の世界に帰すためにはそこまで私はやりのけます。
だから、あなたにどういうものが潜んでいるか要注意。
私はどういう方法であなたの前に立つかわからない。
私はむやみやたらには皆さんの前には立ちません。大きな意味があって私は皆さんの前に立ちます。
(別の方から)続きの質問
「先生が私たちの我(が)を膨らませて落とす」ということについてですが、私の場合も、おそらくわざと先生が私たちの前で表現しているときに、その表現によって思いグセ、悪習が出てきます。たとえばものすごくネガティブな思いが出てきて、「もうこの学びをやめたい」と思ったり、兄弟姉妹に対して、自分もびっくりするほどの怒りが出てくることもあります。2015年、愛の波動が高まっている年ですが、潜んでいるネガティブな感情が込み上げてきたとき、切り替えて改善できるようにアドバイスをください。
その方法はみんなそれぞれに違います。
私は30年間こういう体験してきたの。
たとえばYさんが私に、「あなたがストレートで私にアドバイスしてくれるならば、私はもっと進めるのに、もっと高まるのに…」って、私にそういう質問をしてきた。
で、私はYさんに、「私がアドバイスする通りできますか?」と言う。
「絶対やれます」と言ったYさん。私には丸見えですから、名前までわかります。
「あなたは誰彼を絶対に死んでもゆるせないという思いがある。じゃあ、今、即ゆるせばあなたは、今、至福にやすらげる。やれますか?」と言ったの。
やれた人間は三十何年で一人もいません。
だから学びというのは、今日の一歩、明日の一歩の積み重ねなの。
私は今、あなたの質問を聞いて改めて思った。
神の愛のパワーってすごいな、と思いました。
なぜならばあなたは、あなたをこの学びから去りたいという思い、そこまでとことん皆さんを引き出させるから。
この愛の光という凄さを改めて思い知らされました、自分自身が。
それはMさんも思ったといいます。「もう学びをやめよう、去ろう」。
この中にもいっぱいいます。
しかし、誰も去ってくれないの。
しがみついて重くて(笑)
それは、あなた方の上辺では知らないけど、魂の段階で真実を知っているからなの。
じゃあ、もしあなたが私に「もう私はこの学びは嫌、去りたいよ」と言うならば、私はどう答えるのか?
絶対に私には躊躇いはありません。
「どうぞ来生を期待してください」。
これが私の答えです。絶対に私は感情では引き留めません。
「はい、来生、また学びにきてください」と言う。
しかし、その来生というのが怖いもので、何百、何千、何万年後の来生かわからない。
私の26年前に去ったお母さんは次、肉体という衣装を纏うのが、何百年後、何千年後、何万年後かさえも教えられていない。
だから、道具という感情に振り回されて、自らをここまで混乱に追いやってはならないと言うの。
しかし、あなたはさっき私が説いたことさえも、もう忘れています。
私はあなた方を「落とすため」ではなく「高めるために」と説いたんです。
しかしあなたは「落とす」という表現したんです。
もうここで私の光話が身に入っていないことがわかります。
本当はここで使うべき言葉は「完成に導くためにそういう方法をとる」という表現であるべきだったの。落とすために私はやっているのではなく、あなた方を引き上げるために、高めるためにと言っているの。そこから大きな間違いをおかしている。
もう光話は何もなかったということになるの。そこをしっかりととらえてほしい。
だから質問一つ間違えれば私に噛みつかれますよ。