●たとえば昨日、山梨のふれ愛のセミナー。その会場が、場所が狭くなって、大きな会場に昨日移してくれました。もう今までの会場とは違う何倍も広いところ。それは、主催しているIさんから、「しかしその会場はかなり古いですよ…」って聞かされていました。で、まわりの方々からは「相当ボロボロの会場ですよ」と聞かされていました。
しかし昨日朝、一歩私がその会場に入ったとき、古い姿、あるいはボロボロの姿に全く見えないんですよ。カタチ・姿・形態を超えた実相からその本質を観ます。
非常に無限に黄金に輝いた姿でした。
はっきり思いました。自分の心がボロボロであるかぎりは、ボロボロしか見えないんですよ。
くもりなきこころに美しい姿。
じゃあ私、今、皆さんに何を見ていると思いましょうか?
一人一人に美しき愛の姿を見ているんです。それが本来のあなた方の姿なんです。
なぜ美しい姿が見えないんですか?
汚れた鏡で、くもった鏡で美しいものを映し見ようたって不可能であることを知ってほしいんです。
古い古い会場と言われたって、ボロボロの会場と言われたって、己が輝いているかぎり“輝き”しか観えないですよ、輝きしか感じないんですよ。
この世界は己の写し鏡ですよ。すべて己の鏡次第ですよ…見るも感ずるも。
汚れた心の者に、くもった心の者に、「輝きを見よ」と言ったって不可能なことを私は知っていますよ。不可能ですよ。
汚れた者は、汚れしか写し見ることはできないんです。
くもった者は、くもりしか写し見ることほかにできないんです。
相手を見るは、相手に己を写し見ているんですよ。相手はすべてあなた方の写し鏡なんですよ。
「この人はダメです、ダメな人です」と言うならば、あなた方の“ダメさ”をその者に写し、己が見ているんですよ。
それが理解できるならば、「誰を変えよう」ではなく、「己が変わろう」なんですよ。「己を変えよう」なんです。