私がたとえば朝ですよ。まあ私も磨き上げていく途中ですよ。たとえですよ、たとえ・・・朝に家内への正しい思いがずれたとき、正しい言葉遣いがずれていたとする。で、その表現がずれていたとする。
思い、我々の行為は三行為ですから、言葉が、あるいは思いが、あるいはその表現・行為がどこかずれていたとき、私、一日中気持ち良くいれたことないですよ。気持ち悪いんですよ。気分悪いんですよ。
それを完璧に修正するまでは、その嫌な気持ち続きましたよ。
しかし皆さんは分離感で、あの人に怒り、嫉妬、あるいはうらみ、罵り、裁いたりしたって、皆さんはなぜ心地良くいれるの?
汚れの中にいるからですよ。
汚れの中にいる者は、汚れが気持ち良いんですよ。
しかし皆さんが少しでも磨き上げていく努力をしたときは、一点の汚れに皆さんは気持ち良くはいられないですよ。完璧にそれを正すまで。修正するまで。
これ私は何十年の体験でこれを味わってきているんです。だからはっきりわかるんです。
皆さんが相手を不愉快な思いをさせて、傷つけて苦しめても、なぜ平気でいられるのか?
汚れの中にいるからですよ。汚れの中に。
輝いてみてください。一点の汚れも入り込んだら、もう良い気持ちでいられないですよ。一日中良い気持でいられないですよ。修正できるまでは。
そこまで皆さんがきたときは、完璧に己を磨き上げぬかぎり、もう良い気持ではいられないですよ。
これを“己に厳しく”というんですよ。
己に厳しく、まわりに他に寛容な心であるべきなのが、あるいは優しく、いたわり、思いやりであるべきなのが、今までの我々の生き方は、己に優しく、己に寛容な心、他に厳しくだったんですよ。
己の心の畑は雑草が・・・もう心のトゲですよ。
光話より抜粋